日本の社会は先の不幸な戦争の後、大きな変化を遂げたように思います。多くの方が戦後に生まれた世代となった今であっても、現代の変化の速さには追い付いていけないほどです。
戦後の変化の特徴は、政治的には民主化が一気に進みましたし、経済的には産業主義であり工業化が積極的に取り入れられました。その結果、所得水準や衛生状態の飛躍的向上がもたらされ、みんなが車を持つことができるようになるなど、物質的所有水準の向上や平均寿命が延びたことは喜ばしい限りです。これらの「理想的な社会」が実現したことは間違いありません。
その一方で都市への人口集中、核家族化、単身世帯の増加等、それまでの家を中心とした生活スタイルが大きく変化した結果、「これが本当に私たちの望む『幸せ』だったのだろうか?」という疑問が、どうしても心のどこかから離れないのも、また、事実ではないですか?
今の時代のような知識偏重、合理性を重視する風潮は、私たちを取り巻く生活の中から、「もっと大事なもの」、「忘れてはならないもの」を取り去ってしまったようにも思うのです。
どんなに情報通信や化学・工学が進歩しても、人間の生活は様々な知識や情報、それによって得られる合理的なライフスタイルだけでは満たされないのではないのでしょうか。
生老病死・愛別離苦などの釈尊時代から変わらぬ「苦」は、今の、この高度で複雑な情報化社会においても、相変わらず苦であり続けているのです。それ以上に、新しい生活スタイルは新しい社会的ストレスを生み出し、いつの時代にも変わらず存在した根源的な「苦」とともに現代人に襲いかかっているのです。
表面上は豊かな生活を営んでいるようで、本質的には「苦」に満ちた現代生活において、「お寺」とは何でしょうか?「お寺」には何ができるのでしょうか?
過去に果たしてきたような役割を果たしているのでしょうか?
今、「弘願寺」は自分自身に問い掛けを始めたのです。
「弘願寺」は、皆様と一緒に、現代の「苦」に真正面から向き合うことをお約束します。
今も、未来においても「弘願寺」は、皆様とともに喜び、そして、思い、手を取り合って進んでゆくお寺なのです。